1945年8月15日以降も戦争は続いていた話を何度か書きました。
今回は緑十字機の話です。これも1945年8月15日以降の重要な話です。
実は私は最近まで知りませんでした。私のYouTubeチャンネルやSNSへのコメント等で初めて知りました。
【テレビ】8/19(月)BS1 21時
昭和の選択 敗戦国日本の決断 マッカーサー「直接軍政」の危機
1945年8月、マニラに向かった日本使節団の緑十字機は、降伏に反対する厚木航空隊に危うく撃墜されそうになる。玉音放送から2週間あまりの息詰まる敗戦ドキュメント。https://t.co/4x1vWNuSjl pic.twitter.com/zzrJ6iIX1m— JapanDocs (@jdocs) August 19, 2024
YouTube動画を共有します。当時の関係者(90歳代)へも数多くインタビューされている貴重な動画だと思います。
重要な場所を羅列します。
・木更津基地
・厚木基地
・伊江島
・鮫島海岸
・浜松基地
「緑十字」機を知っていますか
15日に終戦、アメリカと日本を握手してみんな終わり。
じゃないんだよね
数々の困難が立ち塞がりそれを超えた名も無き英雄達の手によって今の日本がある
この緑十字機、終戦直後の話も、少し判断や運が悪ければ、また国内で反乱が起き、アメリカ軍が直— 土佐日記🪼 (@tmHosb) August 26, 2024
を決死で守りきれず、紛失してしまったりなどしたら…
そんな少しの出来事の違いで今の日本の未来は大きく変わっていたのでは無いかと思うと、この細い綱渡りの末にある日本が大切に思えてくる— 土佐日記🪼 (@tmHosb) August 26, 2024
磐田市長の草地博昭さんがXのポストで、鮫島海岸での出来事や伊江島との交流の話を書かれています。
今朝の地元紙に取り上げていただきました。日本の戦後がはじまるのは、8月15日の玉音放送からですが、まずは連合軍との終戦にむけた手続きを踏まなければなりません。
そこで日本は全権大使をマッカーサーのいるマニラへ派遣します。そこで登場するのが、機体を白く塗り、翼に緑十字を書いた飛行機— 草地ひろあき@磐田市長・安心できる街、人が集まる磐田市へ (@kusacchi51) August 22, 2021
一昨年、沖縄県伊江村にいき、伊江島空港跡に立ちました。この平和のための飛行機を連合軍こそ待ち望んでいた、歓喜の様子が伝わってきました。戦争は現場で戦う兵には両軍とも悲劇しかない。戦争と平和を考える上で、このことは大切なキーワードとなりました。多くの米兵も沖縄で亡くなっています。
— 草地ひろあき@磐田市長・安心できる街、人が集まる磐田市へ (@kusacchi51) August 22, 2021
しかしそこがどこなのか、軍師たちはわかりません。たまたま夜中にイワシの番をしていた鮫島地区の住民が近づき、東京へ帰るためのサポートを、村中の方を起こしてしたとのこと。最終的には浜松基地から東京へ向かうわけですが、基地に飛べる飛行機があったことも奇跡だったようです。
— 草地ひろあき@磐田市長・安心できる街、人が集まる磐田市へ (@kusacchi51) August 22, 2021
先日は伊江島を18時40分に緑十字機が飛び立つタイミングで、オンラインで交流し、23時55分に鮫島海岸に不時着するときにまたオンラインで交流したようです。こうした平和を考えるためにいい物語が双方の地域が認識したうえで残っていることに感謝しますし、平和教育につかっていきます。
— 草地ひろあき@磐田市長・安心できる街、人が集まる磐田市へ (@kusacchi51) August 22, 2021
詳しくは岡部英一さんの「緑十字機 決死の飛行」に掲載されています。ぜひご覧ください。 pic.twitter.com/ySio6x5sUT
— 草地ひろあき@磐田市長・安心できる街、人が集まる磐田市へ (@kusacchi51) August 22, 2021
伊江島や鮫島海岸には一度行ってみたいと思います。
コメント
緑十字飛行のことはよく知りませんでしたが、不時着事故に逢いながら降伏の使者が往来したことは聞いたことがありました。駆り立てられて命懸けの覚悟をした人々の気持ちは、簡単に収まるものではありません。
緑十字が終了したのは、10月10日だそうです。
昭和の東京オリンピック開会式、昔の体育の日、さすがに単純な偶然でしょう。
60年前というのは、日本にとっては戦後時代の変わり目です。今回の記事で歴史の小さな偶然に、心温まりました。
本を見えるところに置いてくださって、ありがとうございます。お持ちくださるだけで十分だったのですが、見栄えも悪くないことに気づきました。とても嬉しいです。